種別:史跡
指定年月日:昭和54年3月22日
所在地:龍ケ崎市5147番地
管理者:医王院
雪中庵蓼太は信州伊奈郡大島村の人、芭蕉門十哲のひとり服部嵐雪(一世雪中庵)の流れをくむ俳人で、雪中庵三世を称し、江戸中期の俳壇において活躍した宗匠であり、著書に「筑波紀行」、「蓼太句集」、「発句小鑑」などがある。
句碑の表面には「たましひの入れものひとつ種ふくべ」と蓼太の句を刻み、裏面には「空摩居士自隠褝士の隻手の音を聞く……、居士は天明7年丁末9月7日を以て没す、今茲に27回忌の正当を営む、よって常陸、しもふさの我おしえる子等と力をあわせ、遠つ海の石を運びて瑠璃光山に分骨を納む、なほ枯木裏の龍吟となりて、とこしなえに尽せざれと。文化10年癸酉9月7日、筑波庵道隣謹記、薫堂井敬儀筆」と記されている。建立者道隣とは、上町杉野治兵衛氏のことで、俳人筑波庵翠兄と称して龍ケ崎を中心とした常陸・下総に多くの門弟をもち、晩年蓼太に傾倒し高弟となった。天明元年(1781年)には蓼太は龍ケ崎に招かれ、数日間滞在して探題を催し、頼政塚や奈戸岡三本松などの名所旧蹟の句を残し、著作「筑波紀行」には、翠兄と同行の句がある。
文化10年(1813年)は蓼太の没後27回忌に当たるので、翠兄は常陸・下総にわたる門人を集めて、その供養を営み、この句を建立した。